湖上にて

よしなしごと

ひとりメシデビューにおすすめの店

1位 くら寿司(最近の)f:id:nekzame:20230530175956j:image

受付は機械がやってくれるため、受付係の人間がいない(店舗によるかもしれない)。また、最近はテーブル間の仕切りが高い店舗が多く、他の客は一切見えない。感覚としては個室に近い。注文しても素早いレーンが運んでくれるし、会計も全て機械で済む。皿は投入口に入れて終わりなので、そうそう他人と接触する機会がないのである。ビッくらポンがやかましいならテーブルの端末で拒否できる。ふたつ難点を挙げるとすれば、ガラガラの店内では注文の品が届くときの通知音がちょっとデカい。でもこれは、混雑した店内を想定すれば仕方のないことだし、すぐに慣れる。あとは、会計のボタンを押したときに、皿の枚数の最終確認のために店員が召喚されることがある。召喚されないこともあるので、滞在時間や混雑具合によって異なるのかもしれない。


おそらく、ひとり〇〇を苦手とする人間は、店員や客に「アッこいつひとりだ」と思われる恐怖を抱いている。学生時代にボッチ飯&レストルーム飯を経験した私でさえ、その感覚はまだ少しあるので気持ちは分かる気がする。そのアッひとりだ視線が限りなく0に近い場所は、やはり落ち着いてご飯に臨めることだろう。そういう点では、くら寿司は大変優れていると言える。


ところで私のボッチ飯事情だが、大学生の頃には、学生街にあるレストランやラーメン屋に訪れたことは4年間で3回ほどしかない。主には、コンビニ弁当もしくは学内のパラソルで買った弁当を、学科棟の離れにある空き教室で食していた。そこには滅多に人間がこないため、勝手にクーラーを稼働させ、椅子を並べて寝転んでもいいしギターを弾いても構わない。大学という騒々しいフィールド唯一の聖域だった。

わざわざ空き教室に逃げる理由は、同じ学科に苦手な生徒がいたためである。その生徒は、私に好意的に話しかけたかと思うと、精神病マウントを取り続けるという厄介者であった。精神病であることは決して優位なことではない。優位ではないのだが、時折、芸術的な人はこころを病んでいるとか、精神病が何か美しいものであるという妄想を抱く人がある。創作物などにおいては、確かにそういう場合もあるかもしれない。だが、精神病であるから素晴らしい曲が書ける、素晴らしい絵が描ける。そんなもんは大抵ありません。精神障害者手帳2級を取得した私だが、芸術的な側面でずば抜けて秀でたものは特にない。それは精神病患者になる前もなってからも変わらない。私にはそういう目覚しい才覚はないのだ。確かにうつ病になって、簡単なものだが曲が書けるようになった。しかしそれは病気がトリガーになったわけではなく、ボカロPの友人から録音機材を譲り受けたり、作曲ソフトのことを色々と教えてもらった時期だったからだと思う。仕事を失い体も動かず、曲を書いて知り合いに聞かせることしか自分の輪郭を保てるものが他になかったし、何より膨大な時間があった。今も病気は完治していないが、話したいことがあるときに曲を書いたり書けなかったりするし、かわいいものが楽しいから絵を描いたりしている。それらがたくさんに抱きしめられることはないと思う。それでもいい。ただ、もしあなたが、精神病を患う誰かの創作物を好きになったとき、その作品が美しいのは精神病が理由ではないのだと信じてほしい。

健康な人間も精神病患者も等しく、それぞれの力でもって、素晴らしいものや駄作を創造している。大好きなアーティストが素晴らしい曲を書いたのは、病気のためではない。素晴らしいものを創造できない自分を、健康であるからと責任転嫁してはいけない。素晴らしいものを創造する人間のこころには(あるいは脳には)、何やら煌めく石や花がある。ただそれだけである。それは精神が蝕まれてできた腫瘍ではない。生まれ持ったものや、努力で獲得した賜物である。病状が回復した時期から創作が滞るようになったのなら、きっとそれらの寿命が尽きたか、石や花が輝くための太陽か月かが欠けただけである。


2位 ラーメン屋

3位 サイゼリヤ

以上です。

名古屋たびのきろく2

2021/06/01 18:00

名古屋、伏見駅の3番出口にて、幼なじみとおよそ半年ぶりの再会を果たす。そのまま夕飯を共にするために歩き出し、テンションが上がりすぎて店の外観を撮り損ねたが、伏見駅の近くにある「島正」というお店へ向かった。

せっかくなのでアルコールといきたいところだったが、このご時世では飲めないのでコーラで。いわゆる「名古屋飯」を単品でいろいろと楽しんだが、どれも味噌が染みていて最高だった!

「みそおでん」f:id:nekzame:20210602222717j:image

「どてオムライス」f:id:nekzame:20210602222723j:image

 

その後、幼なじみが占いに行きたいと言うので付き添いとして行くことに。

だが、元来スピリチュアルなものを全く信じていない私は、20分5000円という金額を聞いてさりげなく異議を唱えた。しかし、田舎に隔離されて悩んでいる新卒一年目、幼なじみの強い主張を前にそれはあっけなく折れたのであった。


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結局、初回限定料金やらお試し体験やらで私は10分間のみの合計1000円で済んだため、財布の傷は浅かった。幼なじみにも割引が適応されたが、20分にさらに延長を重ね、彼女はしっかり5000円を支払っていた。自分の占いもさることながら、隣で30分ほど他人の占われている姿を見ているというのもなかなか面白いものだ。

そして何より、私は占いを完全に舐めていた。というより、占い師を舐めていた。「見えます」というのは本当に最後まで訳が分からなかったが、私の思想や幼なじみの職場の情景などを見事に言い当ててくるのだ。人間の心理は身体や動きにも現れると言われているので、占いもつまるところは究極の観察眼か心理学かと思っていたが、こちらが特に話しても反応してもいない事柄について積極的に触れてくるのには驚いた。

そして、思っていた以上に占い師がペラペラと喋るのである。幼なじみと二人で同じ部屋に入り、一人ずつ占ってもらう形式だったのだが、開幕と同時にこちらが悩みを30秒ほど話した後は、文字通りずっと占い師のターンである。名前や生年月日から我々の背景を当てていくといった感じで、外しかけたら軌道修正という感じもなくはなかったが、それが非常に自然な運びなので「当たっている」ように感じる。幼なじみが途中から「先生、私の未来が見えますか!?」「すごい!!!」と前のめりになって延長料金を重ねる様子は心から恐ろしかったが、あの占い師の腕前は確かにすごい。何より、めちゃくちゃ褒めてくれるので普通に癒されてしまった。対人関係において見習いたいところがある。

 

幼なじみのハイにつられて楽しくなってしまい、0時近くまで占いについて語り合いながら街をぶらつき、適当に見つけた安いビジネスホテルに泊まった。

セミダブルでいいですか」と尋ねるホテルマンに、まぁちょっと恥ずかしいけどいいかと思いながら確認しようとした瞬間、隣から発せられた「ツインの部屋は本当にもうありませんか??」という幼なじみのクソでかい声に全てを掻き消された。ホテルマンが調べてみると奇跡的にツインの部屋が1部屋だけ残っていた。なんとなく心に残る寂しさとともに会計をしていると、お釣りもまだ貰っていない頃に幼なじみがエレベーターに駆けて行き、「ひらく」ボタンを押して待機していた。職業病だろうかとぼんやり思いながら、小走りで乗り込みツインの部屋へ。

 

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幼なじみが風呂に入っている間、ひとりでに開催した小さな宴。彼女とは長い付き合いになるが、食べ物を食べる速度と入浴の速度だけは昔から本当に合わない。幼なじみが遅すぎるのか、私が早すぎるのか。それは誰にもわからない。

長風呂から上がった幼なじみは、いちごミルクを飲みながらいちごミルクプリンを食べていた。さっきミニストップの白桃パフェも食べたところだろう。味の好みもそれなりに違う気がしてきたが、これに関しては、私が甘いものが極端に苦手というだけかもしれない。

宴の後はツインのベッドにそれぞれ寝転び、また他愛無い話を繰り広げながら同じタイミングで沈黙が訪れ、その瞬間にお互いが眠りについた。

 

2021/06/02

6時半。自力で起きられず幼なじみに叩き起こしてもらい、無事にチェックアウトを済ます。そのまま近くの喫茶店へ。

名古屋では喫茶店が有名らしく、いつもの私なら朝食より睡眠を優先するところだが、幼なじみの強い推しもあってこの日は「KAKO 花車本店」にてモーニングを食べた。

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ここで過ごしたひと時は、名古屋に来てから最も幸せな時間だったと言っても過言ではないかもしれない。

ぶっきらぼうかと思いきや温もりのあるマスター、声の少し高い目元のやさしい店員さん。ステンドグラスから漏れる灯りでほのかに明るい店内には、いろんなお客さんがモーニングに集まっていた。

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私は「ブレンドコーヒー」と「クリームチーズコンフィチュール」を注文。

まずはブレンドコーヒーを一口啜って驚く。ここ最近は缶コーヒーばかり飲んでいたというのもあるが、それにしても美味しすぎる。深い後味と香りが胸いっぱいに広がって心地いい。それだけで美しい朝のはじまりという予感がする。

コンフィチュールというのは、果肉感の強いジャムみたいなもので、私が注文したものはトーストの上にクリームチーズとコンフィチュールが乗っていた。左上から時計回りに、パイナップル、よもぎ、甘夏みかん(おそらく)、林檎みたいな味のやつ(名称不明)。マスターがひとつひとつ説明してくれたのだが、何度聞いても林檎みたいなやつの名前が理解できなかった。自分の寝ぼけ頭の悪さを呪ったが、そんなことがどうでもよくなるほど美味しかった。幼なじみは、クリームチーズではなく、生クリームと小倉の乗ったコンフィチュールを食べていた。他にも2種類ほどトッピングが用意されており、生クリームやあんこ系の甘さが苦手な人でも幸せになれるメニューだった。

「いってらっしゃい、がんばって、役にたってくるんだよ」

何かしらの知的障害を抱えていると見えた先客が席を立ち、マスターがやさしい声で見送った。おぼつかない返事をして笑ったあの人は、このあと仕事にいくのだろうか。

抗がん剤もう飲まなくてよくなったんですよ」

隣にどかっと腰掛けたスーツの人が嬉しそうに話していた。そりゃよかったと微笑みながらコーヒーを手早く淹れるマスター。

注文が到着してから、幼なじみとはなぜか一言も交わさなかったので周囲の声がよく聞こえた。ゆっくりと、それでいてしっかりと、日常がはじまる音。私がつまづいて休職している間にも、歯車は回り続けている。取り残されている寂しさと同時に、いつか私も変われるかもしれないという希望が込み上げてきた。

 

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茶店を出た後は、買い物をするために名古屋を歩き回った。山奥で暮らす幼なじみは、ここぞとばかりに買い物をしていて気持ちがよかった。セブンイレブンに感動しておかずを買いだめし、ビックカメラAirPods Proを購入し、iTunesカードを1万円ぶんチャージしていた。

12時頃、気づけば互いの帰りの電車の時間が近づき、名古屋駅でさっくりと解散した。

慌ただしく去っていく幼なじみ。次に会えるのはいつになるのだろう。その頃には、23才を焦って笑っていたことも懐かしくなってしまうのだろうか。

 

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帰りの新幹線の中では、ひれ味噌カツ弁当を食べた。新大阪まで1時間程度、旅はこんなにもあっけなく終わってしまう。土産に名古屋のご当地ビールを買ったはいいものの、この足で心療内科に行かなければならないことを既の所で思い出し、蓋は開けずにリュックサックの中にしまった。

こんな6月のはじまり。私はこれから、社会復帰に向けて心を調律しなければならない。

苦しいこともあるだろう、でも大切な何かが変わるような予感がする。

 

名古屋たびのきろく1

2021/05/31

茶臼山高原のホテルで忙しく働いている幼なじみから、珍しく三連休が取れたとのことで電話がかかってきた。

4時間ほどの他愛無い会話の末、翌日に友人が名古屋まで出てくるいう話を聞き、私は凄まじい衝動に駆られた。その時にはもう19時だったが、その場で翌朝のバスを予約し名古屋へ行くことを決意。

これは、その弾丸旅行に関する瑣末な記録である。

 

ところで、茶臼山高原とは、愛知県北部の果てにある芝桜で有名な高原だ。

幼なじみが住む寮からは、コンビニまで車で片道1時間、スーパーまで片道2時間、送迎バスと電車を乗り継いで名古屋まで片道3〜4時間、子牛や鹿の群れまでは徒歩30秒という、びっくら大地のド田舎である。

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しかも幼なじみは車を持っておらず、日用品を買うとなれば先輩に足を頼み込むしかない。大阪で生まれ育った私には想像もつかないその暮らし。同期や友人と物理的に会えず、大自然によって閉鎖された孤独な毎日、職場の裏で蔓延る闇。

電話ではなく直接話して、都会でバカみたいに遊んで、少しでもあいつの気分転換になればいいと思った。

ない金を多少失ったが、一切の後悔もしていない。

 

 

2021/06/01

6時起床に悶え、予約していたバスに2分遅れで乗車する。早朝から汗を滴らせ、焦りすぎて検温とアルコール消毒をスルーしようとして運転手に苦笑される。

また、途中のサービスエリアでグミを大量購入し、車内を一時的に甘い匂いで満たしてしまうなど、乗客には非常に申し訳ないことをしてしまった。

そんなこんなで、特に反省もせず三重県を通り越し、名古屋へ到着。その間およそ3時間。

 

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着くや否や、真っ先に向かったのは「味噌にこみ たから」という味噌煮込みうどんのお店。幼なじみと合流するのは夜になるうえ、あいつは味噌煮込みうどんアンチなので、これはひとりで食うしかない。

それに、意外と知られていないがひとりで食う昼飯は美味い。

12時前と少し早い時間であり、平日なので特に並ぶこともなく入店。

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外が蒸し暑い中、アツアツの「玉子にこみうどん」を注文。汗だくになりながら汁まで完食。

ただひたすらに美味しかった。だが、困ったことに汗が止まらない。このままではお会計に行けないと思った私は、生まれて初めて店のおしぼりで顔を拭いた。

ひいばあちゃんの家のようなやさしい店内に流れるクラシック、和やかな店主と店員の会話、客の談笑の影、それはもう密かにサッと顔を一拭きしたのであった。

なけなしの名誉のためにこれだけは言わせてもらうが、おでこと鼻の下を軽く拭いただけである。

 

無事に会計を終え事なきを得た私は、名古屋の街並みを散策することにした。

しかし、間もなく口内に違和感を覚え始める。若干の猫舌でありながら食い意地が張っている私は、熱いものを食べるとほぼ百発百中で口内を火傷するのだが、今回も例に漏れず、味噌煮込みうどんにより舌を負傷してしまったようだ。

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耐え切れずコンビニでアイスボックスを購入。

舌の上で入念に転がしながら完食するも、ヒリヒリとした痛みは悪化。

だが、コンクリートの照り返しの中で食べるアイスボックスは美味すぎるので、すべて良しとした。

 

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14時頃、海が見たかったのでふと名古屋港へ。名古屋から電車で20分ほどで海に行けるっていいよね。

そして思い出す。名古屋港水族館という、水族館好きにも高く評価されている(たぶん)スポットがあるということに。

しかし。様々な出来事をひとり○○へと昇華させてきた私でも、ひとりで水族館に入館したことはなかった。臆して情けなく炸裂した方向音痴により、チケットを買う場所すら分からない。ここかな?と思ってみても、ひとり水族館への恐れのせいでもう万物に対して勇気が出ない。

10分ほど、海を眺める切なさを演じながら港を往復していたが、ふと現れたカップルを追いかけて悠々と階段を上り、無事にチケットを購入した。

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いざ。

大阪弁が目立つとなんとなく恥ずかしいので、モソモソとスタッフさんに礼を言いながら入館。

 

※以下、名古屋港水族館内の写真を含む、ネタバレありのレビューとなります。※

※少し魚が好きなだけで、水族館マニアのレビューではありませんのでご注意ください。※

※ショーの内容に関するネタバレはございません。※

 

 

この水族館は水中の美しさを見事に表現している。

波の揺らめきを日差しが透過し、暗い館内の床や壁にはあちこちと水面の影が落ちている。まるで自分が海の中にいるような気分だった。時期と時間帯のためにお客さんがほとんどおらず、ひとりだということもあっていつもより五感が鋭くなっていたのかもしれないが、こんなにも美しい水族館は今まで見たことがない。

水槽内のライトや色合いも非常に美しい。珊瑚の種類や配置等もかなり工夫されていると見えた。

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そして、この水族館では視覚だけでなく聴覚までもが心地いい。館内の一歩目がイルカの水槽というのも珍しいと思うが、ここでは微かにイルカたちの鳴き声が聴こえるのだ(幻聴だったらすみません)。水槽の向こうから声がするという感動に、しばらく立ち尽くしてしまった。

おそらくタイミングのすれ違いで見当たらなかったが、看板の表示から察するに、ここにシャチがいる時もあるのだろう。

 

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写真が絶望的に下手だが、ベルーガ(シロイルカ)を見た時は感動にうち震えて動けなかった。私にはシロイルカという名前が馴染んでおり、ベルーガという別名は初めて聞いたのだが、地元のお客さんらしき人々の口から発せられるそれには、愛しさと親しみが感じられた。また、ベルーガのショーもあるようで、それはさぞかし可愛いらしいだろうなと頬が緩んだ。

図鑑の外で初めて見たと思いネットで調べてみたところ、ベルーガに会える水族館は日本に4つしかないとのこと。たしかに他の3つの水族館は一度も行ったことがない。

鴨川シーワールド(千葉県)、八景島シーパラダイス(神奈川県)、上越市立水族博物館 うみがたり(新潟県)、名古屋港水族館(愛知県)

 

 

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トラザメ。わりと多くの水族館で飼育されている種だとは思うが、こんなにじっくりと間近で見たのは初めてである。私は、サメの中でも海の底にペタッと這っているサメが大好きだ。

 

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また、水の上から魚を見るという楽しさも見落とさない。他の水族館でもよく見られる光景ではあるが、この名古屋港水族館では大きな水槽を上から見ることができる。

何がいるかはあんまり分からないのだが、ぼんやりと見える魚たちの影や、エイが水面をバシャバシャするところを見ていると非常にわくわくする。 

 

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かわいい

 

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シャチがいる水族館は、現在は名古屋港水族館を含めて日本に2つしかないため、シャチに会えるというのはこれとなく貴重な機会である。もう1つは鴨川シーワールド(千葉県)なので大阪からはそれなりに遠く、私がシャチに会うなら名古屋港水族館が手堅いだろう。

だが、私にはいつか一緒にここに来ようと約束した人がいるため、ベルーガのショーもそうだが、シャチのショーも敢えて一切観ずに帰った。この写真に映っているのは休憩中のシャチである。本当はシャチを見るのも楽しみにとっておこうと思っていたが、たまたま見つけちゃった。


そのため、シャチについては言及できかねるが、イルカ好き&ウミガメ好きには文句なくおすすめできる水族館である。

もちろん、魚好きにもおすすめだ。寝不足と度の低いメガネをかけていたせいで解説の看板を読み込めなかったが、特に深海コーナーはアツかった。昭和基地エリアも当然興奮したし、クラゲコーナーもあのコンパクトさであの濃密さ。常設展示のレベルが高く、それぞれに飽きさせない工夫が施されている。親しみの持てる展示も多く、魚に詳しくない人でもきっと楽しめるだろう。すっきりと回ることができ、すべてに愛を感じた。

人に旅を強制するのは主義に反するが、ここは死ぬまでに一度は訪れた方がいいかもしれない。私もあと20回は行きたい。

 

つづき→名古屋 たびのきろく2 - 湖上

会社を休職することになった

もうじき新卒2年目を迎えるところだった。

人事で採用の仕事をしていた。4月から後輩が入ってくるので頑張るんだよ、と上司に背中を押してもらっていたある日のことだった。体がベッドから起き上がらず、吐き気がひどい。また何かがうつのトリガーを引いたか、とため息をついた。残業続きの疲労か、元来の神経質な性格か。高校生の頃から定期的な不調があったので、そう焦らなかった。重苦しいまま、30分遅れで会社に到着した。

今日は笑えなくても構わない。体調不良ということで上司には伝えてある。業務だけを淡々とこなして帰ろう。覇気のない声で挨拶をした。どうか今日は定時で上がらせてください。

パソコンを立ち上げてメールボックスを開いた。仕事柄、毎日100件ほどのメールが届く。日中は忙しいので、朝イチで数件でも処理をしておかなければ、と早速1件のメールを見て私は固まった。文章を目で追えば追うほど、言葉が頭からこぼれ落ちていく。おかしい。書いてあることが全く分からない。......活字が読めない。やっとの思いで内容を理解したとき、背中で汗が一筋流れた。今度は、自分が入力している返信の文章が、正しいかどうか不安でたまらなくなったのだ。

「いつもお世話になっております。」「承知いたしました。」たったその程度の数行で時間を食いつぶした。間違っていたら不注意を叱られる、迷惑をかける。ぬるぬると食道の壁が蠢いた。

混乱の中、容赦なく問い合わせの電話を取り次がれ、何を言っているかも分からないまま対応した。おそらく致命的な失敗はしなかった。自分の高くなれない声だけが浮いて響いた。

昼休みは、会社の隣にある公園のベンチで一人、パンをひとつだけかじった。かつては、それなりに多めのパスタや弁当を食べる活力のある人間だったが、ここ数日はあまり食べられない。吐き気と腹痛がとにかく続いていた。そして、毎日同じものを食べた。昼食には同じパン、夕食には同じ味のパスタサラダ。何かを選ぶということが億劫で、いつもと違うということに怯えていた。

食後は寒さに震えながら足を組み、体を小さく畳む。デスクに戻ることは苦しかった。昼休みなのになんだかんだと電話を取り次がれるのが癪だった。ここでずっと音楽を聴いていられたらいいのに。恋人に何気ないLINEの返事をした。あとはもう顔を横に向けて眠ったり、その姿勢のまま目を開けたりする。ふと、鳩がポツポツと歩いている様子をみて、その丸々とした体を包丁で突き刺すことを考えた。昔から、心の調子をそういった妄想で測る癖がある。数秒ふけった後、気持ちがいいだろうなと頬を緩ませ、右手を軽く握りこむ。さぁさぁと空想の中で地を蹴っては、駆け出した足が一歩で止まる。そのたびに私は安心するのだった。

つかの間の休息の後、仕事に戻るも相変わらず文字は読めない。自分が何の業務をしているのかもよく分からなかった。記憶力はひどいものだった。いつもなら空で覚えていられるような業務の指示も、一瞬で抜け落ちてしまいそうになる。デスクは付箋だらけになった。元来それなりに記憶力はいい方だ。特に短期記憶には自信があった。怠け者の自分が、大阪で名の知れた高校や大学に合格したのも、おそらくこの記憶力のおかげだ。それがどうだ、今は何も頭にとどまってくれない。付箋に書いたメモの字も、干からびて死んだミミズのようにガタガタと歪んでいる。自分の字は普段から汚い方だが、それを考慮してもひどいものだった。おれは一体だれなんだろう。この無能はだれだ。絶望の中、仕事が終わった。2時間の残業の末、体調が悪いのでと一言漏らし、心の中で頭を下げて退社した。

 

翌日は、大学生の頃から通院している心療内科でのカウンセリングの日だった。目が覚めたはいいが、またもや体が起き上がらない。30分呆けたあと、なんとかベッドから這い出した。服を着替えることはできなかった。私はパジャマのまま電車に揺られ、5分遅れで病院に到着した。自動ドアのガラスに映った自分の姿は、寝ぐせのひどい肌の荒れた不潔な人間。とても20代前半には見えなかった。

遅刻を詫び、業務中に活字が読めず記憶が飛ぶなど諸々について相談したところ、先生からは休職しなさいと言われた。俗にいうノイローゼになっているとのこと。無力感と安心感、なんとも形容しがたい感情に一気に襲われた。週が明けたら会社に連絡をし、休職の相談をすることになった。

業務過多、ミスが増えて叱られたこと、重圧、上司のため息。他部署の課長から継続的に届く長文のLINE(内容は彼の好きな音楽について)。笑いながら腕を掌でトントンとたたいてくる後輩社員。健やかな自分であれば、気をそらして乗り越えられるすべてのことだった。誰かに話しても、さほど大きな問題としては取り合ってもらえないようなことだろう。相手が同性でも体に触れられることがこんなにも苦しいのは、自分がおかしいからだ。長文のLINEを返すのも、仕事のひとつと思えば平気だった。残業もそれほど苦ではなかった。そんなすべてが運悪く積み重なったのだ。「しんどい」は一本の鋭い針のような集合体となって、頭の脆い部分を突き破った。私は突然、無能になった。

 

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同日の午後、恋人と須磨水族園へ行った。本当は私の家でゆっくり過ごす予定だったが、どうしても外に出たくなり、突然のわがままを押しつけた。頭痛と吐き気がひどい。着ていく服が選べない。記憶がおぼつかない。それでもどこかに行きたかった。普通の人として、君とデートがしたかった。40分かけて選べたのは、何の変哲もないTシャツと薄青いジーパンだった。

海の風が気持ちいい帰り道で、休職することになったという話をした。予想通り、恋人の言葉は耳に痛かった。記憶がところどころ飛んでいるので細かいことは思い出せないが、現実的な話をたくさんしてくれたのだと思う。休職したあとは復帰するのか、休職期間中は何をするのか、お金はどうするのか。大切な話だ。私もそんなことを考えられたらよかった。自分が働けないということ自体をまだ受け入れられていない人間にとって、未来の話は重すぎた。押しつぶれて出血した心が逆恨みしないよう懸命に祈りながら、いつもの適当な言葉を探した。必死に会話して気づいたときには、君は他愛無い話を始めていた。健やかさが眩しかった。

 

昨日、先生と約束した通りに会社に休職の連絡をした。上司からは優しい返答をいただいた。今週はとりあえず有給休暇を使用して、丸一週間休みとなったが、来週からは診断書と休職申請書を提出し、休職となる運びだ。

今の心境としては、とりあえずこうしてまた文章が書けたということに感動している。調子が悪い時を除いて、活字はそれなりに読めるようだ。人生の後ろめたい夏休みが始まろうとしている。一体何ができるのだろう。治療に専念するとして、復職はできないのかもしれない。せめてこうして、無限にも思える時間の中で、今日から言葉を少しずつここに残していこうと思っている。

おすそわけ

今日は休日だ。

大阪の実家を離れ、今は神戸の田舎に住んでいる私だが、ここで暮らして1ヶ月が経った。スーパーは歩くには遠く、ぽつんと洒落たケーキ屋さんだけが、おもちゃ箱のように光る町だ。細長い川には小魚が泳いでいて、ゴマダラカミキリが勇ましく道路を横切る。辺りには猫じゃらしがぼうぼうと生えており、空はべらぼうに広い。

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旅がしたい気分だったので、コンビニでオニギリを購入し、ここで昼食とした。家から徒歩20分ほどの川だ。この川べりの急斜面を滑った先で座り込み、私は道中の回想に浸りながら、ノートに言葉を綴っていた。

ここに来るまでに起きたことは、金木犀の香りがずっと跡をついてきたということと、寝たきりのおばあさんが窓から世界を眺めていたのを目撃したことのみであった。医療用と思しきベッドから見る風景は、季節を隔てたとしてもほとんど変わらないだろう。でも、もしかしたら何かがあるのかもしれない。いやそんなものがなくても、私だって今、何を心配することもなくただ川の音を聴いている。白いレースの可愛らしい服がハンガーに吊るされていたのを思い出した。なんだか祈るような気持ちになった。

 

浅瀬には、白くて大きな鳥が踊る。腰掛けた身体の麓からカエルがぴょこんと跳ねた。カラスが川で水浴びをすることも、蜜蜂がキミドリイロの謎の物体を運ぶことも、私は知らず生きた。かつて過ごした街は大阪の真ん中、不便なことを探す方が難しいような大都会だったのだ。空はジグザグと薄く切り取られ、そのぶん人間が敷き詰まっている。知らぬマンションの灯りはいつだって明日の希望だった。カラスの眼差しはいつでもアスファルトを貫いていた。この町はただ少し空が広い、それだけで、まるでなにもかもが伸び伸びとしているように思えた。

「お姉ちゃん、そこで何しとん」

背後から声をかけられ、咄嗟に「あ、えと、日記を」と見上げると、おじいさんと小さな女の子が二人、こちらを見つめていた。視線に手招きされて立ち上がり、斜面を登れば「なんや、スケッチでもしてるんか」「今日は仕事が休みなんで、ちょっと、散歩しにきたんです」

雑談をいくつか交わしたあと、「今から栗拾いするんやが一緒にどうや」と誘われ、「ぜひ!!」と答えた。女の子は抱えた籠をいっそう身体に引き寄せ、こちらの様子を伺っていた。

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実は22歳、栗拾いをしたのは生まれて初めてのことだった。女の子と手を繋ぎながら、おじいさんと弾む会話、次々と落ちる大きな栗。中に3つ実が入っているものはラッキーなんだって。「(ご自分で)植えられた栗の木なんですか?」と尋ねると、「おー、昔からずっとあるなぁ。誰かが昔に植えたんやろなぁ」とのことで、それは非常に楽しいことだなぁと思った。和気藹々としてきた頃には、「じいじ、もうくらくなる、よるになっちゃうよー」という女の子の声を皮切りに、栗をたくさん抱えた一行はお家に帰っていった。一番小さな無口な女の子が、大きく手を振ってくれた姿が最後だった。おすそわけしてもらった沢山の栗を抱いて、私はまた川沿いを歩き出した。

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写真がうまくないので伝わらないが、川の斜面というものは中々に傾斜があり、草もぼうぼうで、私はいつも半ば引きずられる形で降りていく。栗の木から徒歩15分ほど北へ上がったところで、金木犀の香りが一段と強くなった。水辺ギリギリまで近付き、気分を良くした私は、そこで歌をいくつか歌った。

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誰かが花火をした跡だろうか。小さなキャンドルが残されていた。綺麗なものでもなんでもない、言わばゴミだが、人がそこにいたという証がなんだかあたたかかった。

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帰り道、愛について考えていた。私は、いろんな人から愛をおすそわけしてもらって生きるから、まだ死ねないな。今日はわかりやすい愛をいただいたから、少しくらい潤っても指はさされない。乾いたらまた川沿いを歩けばいい。眼の奥の水を全身に流そう。なにかに出会えるはずだ。

寝たきりのおばあさんの家の前を通った。風はまだ古くあたたかい。この休日を、あなたと少し寂しい日々に捧ぐ。

釣りの話

本日、少し肌寒く、晴れ。‪

大阪府の千早川にて、ニジマス釣りをした。‬

 

私は幼稚園児の頃、魚図鑑の読みすぎで背表紙を破壊した。年中さんから年長さんまで、一途にいきものがかりを務めていたような気もする。

そして現在、魚釣りに関しては全くの無知であるが、密かに憧憬の念を燃やす20代になりました。

そんな私がしたいのは、本日、ニジマスの喉にひっかかっていた釣針の話です。

 

魚は釣って終わりではない。釣針を外さなければならない。

その針が時々、魚の喉奥で引っかかっていることがある。こうした釣針を取ることが、初めての私には難しかった。

方法として、‪なんとなくペンチで針をグイッと引っ張ればいいように思っていたが、実は魚の喉奥に押し込むようにするらしい。(これは帰宅後に知った。)

 

まずは、恋人が記念すべき一匹目を釣った。そのマスは釣針を飲み込んでいたが、隣の気のいいおじさんが、お手本を見せて外してくれた。

二匹目。釣れた喜びに乗っかり、意気揚々と釣針を外そうと試みるが、私の慣れない手つきが魚を苦しめる。喉を高く突き出した格好で、鱗はすっかり乾いている。溢れ出した血と内臓でエラがぬめって、あらゆる輪郭が濁っている。恋人が隣で「かわいそう...ごめんね。」と小さく呟いている。私は胸が苦しい。

 

終には、情けないことに、恋人に釣針を抜いてもらった。魚図鑑を破壊したことがある程度で、魚に関する全ての事柄と友達になれると思い込んでいたので、不器用な両手にがっかりした。魚は死んでしまった。

何より私が悲しかったことは、初めこそ、震えてしまいそうなほど申し訳ないと思っていたくせに、マスから大量の血が溢れてくる様子と死んでいく目を見ていて、いつしかサディズム的な、ある種の快感のようなものを覚えてしまっていたことである。未だにあの興奮の正体は分からない。しかし、私の中に歪んだ何かがあることは確かで、そのことを思うと心臓がヘンな感じになるのです。

 

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釣り上げたマスは、キッチンで塩焼きと唐揚げに調理してもらった。

心なしか、いつもより深く「いただきます」と手を合わせ、いただく。衣もぱりぱり、塩もしょっぱくて美味い。でもそれよりなにより、甘く舌でとろけるニジマスの身、ふわふわ!!皮も小骨も、なにもかもが本当に美味しい!

ありがとう、ごちそうさまでした。